節目の年に当たっての報告
理事長 岩崎俊雄
すぎのこ会の後援団体である「すぎのこ会を守る会」は、個別の組織であった「すぎのこ学園保護者会」と「あすなろ園保護者会」を統合した連合組織として発足しました。当時の入所施設は、訓練、リハビリを受けて社会自立することが目的とされていたために、重い障害を持つお子さん達の保護者の夢は、安心して生活することができる『生活のための施設』を創設することでした。
このような中にあって、あすなろ園を利用していた二人の仲間がこの世を去る、という悲惨ともいうべき事態が続けて起こりました。故板橋秀晃守る会会長は、親が元気なうちに何とか生活のための施設『終身援護施設』を創ろう、と積極的な募金活動を提案しました。当時の施設運営の費用は、措置費と呼ばれ、施設整備への流用は固く禁じられており、施設整備は寄付金に頼らざるをえなかったのです。多くの会員が会長の方針に共鳴し、募金活動を展開したことから基金は大きく膨らみました。
一方、特別支援教育の重要性が認められ、養護学校(現在の特別支援学校)が各地に整備された結果、年々多くの卒業生が社会に巣立つことになりました。しかし、卒業後の進路は極めて厳しいもので、切実な問題を抱える障害者については、あすなろ園に全国初の通所部を設け、遠く下都賀圏域以外からも利用者を受け入れる等、日中系事業に実績を有する本会への関係者の期待が高まっていました。それにしても、すべての障害者を受け入れることは困難で、行政的にも大きな問題となってきました。
打開策の一環として、大岩藤(旧大平、岩舟、藤岡の各町)三町においては、障害者を受け入れるための事業所を立ち上げるべく、本会への三町単独補助金を提案するまでに至りました。しかし、公的資金だけでの施設建設は不可能であり、通所利用を希望する障害者を受け入れるためには、財源問題が大きな課題でした。
このような、家庭に再び放置されかねない障害者の窮状を理解して頂き、日中系事業所を立ち上げるために、守る会の基金の流用をお願いすべく、板橋会長宅を訪ねました。話を聞き終えた板橋さんは、「話は分かった。俺たちが味わった辛く悲しい思いを、若い保護者に味あわせたくない。会員には俺から話す。」と、基金の流用を認めてくれました。その結果、「けやきの家」をはじめとする日中系事業所を立ち上げることができたのです。
一方、保護者の多くが求めた終身援護施設整備の歩みを止めることは許されず、幻と言われた生活施設「もくせいの里」に続き、当時の行政マンが苦渋の決断を迫られたと述懐された、法的に許された生活施設「ひのきの杜、ひのきの杜共生」の開設と、守る会の皆さんが要望していた終身援護施設の整備を併行して実現しました。
今では想定外という言葉が一般化してきましたが、私が一番心配していた重度・重症化、高齢化の波は予想外に早く到来し、行政に迫った苦汁の決断を、私自身が下さなければならなくなりました。ひのきの杜新館を整備し、現在の建物をひのきの杜共生の建物として大規模改修する最終決断に迫られたのです。さらに、コロナ感染症が蔓延する中にあって、予防対策の観点からも、早期着工、設備の充実が求められました。
板橋さんはじめ、彼の岸で見守る会員であった皆さん、歴代の高橋、鈴木会長さん、今でもすぎのこ会を温かく見守って下さる本橋会長、役員はじめ会員の皆さんに、「基金の流用を認めて頂いたご恩は決して忘れず、今ここに期待に応えた整備ができつつある」ことを報告するとともに、衷心よりお礼申し上げる次第です。
新しい年を迎えて、このような報告も兼ねて、過日、慰霊碑に報告に出向きました。その時、慰霊碑の中から板橋さんの声が聞こえてくるような気がしました。『理事長、すぎのこ会の役目はこれで終わりではない、厳しい社会経済状況下にあって、ここからが始まりだ。がんばれ!理事長、がんばろう!守る会』の声です。
私にはこの道以外に歩む道は無かった、受けたご恩は石に刻み、今後もこの道を歩み続けよう、栃木の障害者との出会いから50年、さらに私自身が後期高齢者となる節目の年を迎え、そんなことを自分に言い聞かせながら慰霊碑を後にしました。